ホーム

 

2020年2月1日更新

先人を想う

 


顔右余白

 

 私が車を運転するようになったのは35年前。車いす生活になり必要に迫られたからだ。その頃はバリアフリーの言葉すらなく、公共交通機関は日常的には使えず、飛行機や新幹線で行く距離、遠くへ行くときに使う程度。大きな駅にはエレベーターはあったが、それは新幹線駅のような大きな駅のみで、物品の搬入のために必要で作られたエレベーターだ。それを車いすが来た時に鍵を開けて案内される、

そんな状態で、とても最寄り駅から好きな駅に行けるわけではないので、行きたい場所へは、家族が送るか、タクシーを使うか、自分で運転することが必須だった。足が動かないうえに、手が不自由な者であっても運転免許を取るために、みな懸命に訓練したものだ。そして自力で運転するためには、乗り降りや車いすを積むことも本人自身ができなければならない。

それは余暇を楽しむだけでなく、仕事を持つためにも必要なことだった。

 その頃、東京には車いすで免許を取れる教習所があったが、それより、ほんの少し遡る前までは教習所では練習しか出来ず、運転の技能試験は警察の試験場で合格しなければならなかった。一般の人でも稀に試験場で技能試験を受けて免許を取る人がいる(一発試験と言われているもの)が、これは簡単には合格できない難しいものだ。

そもそも肢体不自由者が運転免許自体を持てるようになったのは、そう古くない。ある脊損男性の働きが大きいが、その経緯については記事で読んだが、それを紛失し詳細をご紹介できない。悪しからず。

 私が車いすユーザーとして自動車の運転をする頃は、今と変わりないくらいスムーズに許可が下りた。どこに行くにも車は足代わりだった。今や、手が自由に利く車いすユーザーですら車を運転せずに、電車で通勤する時代だ。

運転イコール足の確保だった、ほんの少し前までは考えられない現実が今は在る。もちろん大都市に限られているだろう。

想像以上にバリアフリーが進んでいる。地方の高齢者にとって車が必需品であるのと同様、私も運転は一生しなければならないだろうと思っていたが、最近は車が無くても、たいていの所に公共交通機関で行けるようになった。それに伴い、車いすで使えるトイレも増えて、それが相乗効果になり、ドンドン車いすで出かける人も増えてきた。命がけで免許交付に奔走した脊損男性は、こんな日が来ることを想像しただろうか。足の確保のための運転は、もうしなくてもよい世の中に変わりつつあることを。それでも、彼らの存在は大きな意味がある。時代を動かしたのだ。

これまでの歩みは、多くの先人の働きがあったからこそ、享受できる今があるのだと思う。感謝したい。

 

 

 

 

                                                             

“2月のおしゃべり’も更新しました。”

➤ 前回のエッセイを読む


 


▲ ページの上に戻る