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2017年3月28日更新

今月のおしゃべりは近日に更新します。

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不快に囚われない

飄々とした人になりたい2

 

    昨日まで順調に動いていたパソコンが動かない。アレコレやってみても変化無し。憂鬱な気分でメーカーに電話をしてもなかなか繋がらない。それでも解決しないときなど、苛だちとドヨ~ンとした気持ちを引きずる。その上、さらに不運が1つ2つ重なると滅入った気分になる。そんなことは誰にでも起こりうる日常だが、強く落ち込む人とそうでも無いひとがいる。 

 

精神的ダメージを受けやすい人とへっちゃらな耐性のあるタイプのひと。この差はどこにあるのだろうか、と考える。

 

できることなら不快を感じない、より小さく感じる程度に修めたいものだ。 耐性のあるひととは、同じ出来事が起こっても、その解釈に違いがあるのだろうと思う。例えば、不愉快な態度を取られたときに、私とは違う世界の人で、自分の考えの範疇を超えているものなのだから仕方ないと、自分の深部にまで入り込まない。不運な出来事にしても、起こってしまったことなのだとむりやりにでも白黒つけて、逡巡しない。 

秩序を守らずに迷惑をかけられた場合。不快に思うのは、それが自分の常識から外れているからだろう。「これは世の中の常識なのだから」それを乱すひとに断罪したい気持ちの表れが不愉快にさせる。自分のルールを乱されたこと、すなわち自分が思う正義を犯された気持ちになってしまう。そんな正義は他人(身内でも)には通用しないのだ。自分の常識を変える必要はないが、他の人の常識は変えられないのだと悟れたなら、そう苦しまなくて済む気がする。

 

「ひとは変えられないから、自分が変わればいい」とよく言われるが案外実行していないのだ。正しくは「ひとは変えられないから、自分のひとの見方を変えればいい」

どうも自分の正しさをひとに強要したい、思い通りにしたいという欲望をもっている。  

その“欲”を手放すと楽になる。

 

ひとに限らず、日本ではサービスも物事の進み具合にしても優秀で、それを享受しながら日々を過ごしていると、それが標準に思えてくる。ちょっとでも遅れたり、態度の悪いお店のひとに接すると許せない気持ちになる。もちろん、良いサービスも約束時間を守ることも大事で、それを誇りに思う。でも、自分の不快の原因を探っていくと、実は他にあるのではなく自分の解釈の仕方にあるのだと分かってくる。視野を広げてみるといい。

また、メンターやロールモデルになるようなひとを想像してみるのも良い手だ。「私はこのことに、こんなにも腹を立てているが、あの人なら、これほどの腹を立てるだろうか、たとえ腹を立てても、どのように解釈するだろうか、もっと鷹揚に考えるのではないだろうか」と、自分の目の前の問題を師と仰ぐ人ならどうするか、に思いを馳せてみるのも楽になる方法の一つだと思う。

もっと究極を言えば、この問題にこれほど気持ちが囚われても、あと何年(何十年)生きるだろうか、と考えると大したことなど無い。そうは思ってみても、生まれてきた限りは、自分の人生は自分中心に回っているものだ。不快に囚われる性格(物事を気に病む性格)があるなら、ただ囚われるままにせず、意識的に対峙したほうがいい。 上の方法も一つ、また本から、人から、自然から強さを獲得することに貪欲になる。

脳科学者が言う「くよくよ思い悩むことが脳にとっては快楽」という性質を改善する。心配性で、常に悩み事を作っている母、その世代のひとに変われ、ということは無理だろうが、私たちはまだ間に合うと思う。   こだわらないという生き方を手に入れるために。

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