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2019年6月1日更新

「今を大事に生きましょう。」


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エンディングノートを手に入れた。暗いイメージは全くなく、自分の気持ちを整理するもの。いつか終わる時を意識しながら、まだある今を大事に生きるための物だ。もっとも作成者は若い人よりも、高齢者の方が圧倒的に多いようだ。あとの年数を数えると言う意味では、この障害は高齢者と似ているかもしれない。

昔から頸髄損傷者は長生きできないと言われていた。現在も治りはしないが薬も良くなり、以前より長く生きられるようになった。今、生きている人が記録を伸ばしている状態だ。去年、脊髄、頸髄損傷者の平均寿命というものが見た。受傷1年以内で亡くなった人を除いた上での数字だ。かなり細分化されている。受傷部位別と、同じ部位でも、何歳で受傷したかによっても余命が違ってくる。自分はどうだろう?と眺めていたら、ん?すでに平均寿命を越えているではないか。

もっとも一般の人の平均寿命も同じで、うんと若くして亡くなった人も入っているので、実際には、寿命近くで存命の人の余命は平均寿命より長い。私と同じ障害の知り合い達が亡くなったというはがきを見ると、たいてい60代だ。つまり平均寿命より10年くらいは長く生きている。もっとも亡くなっていない人からの喪中はがきは来ないので、正確ではないのかも。うんと長生きしている人もいるのだろう・・・・?

その報告書を見たからと言って、驚きも落胆も無い。ああ、そうですか、くらいだ。いずれにしても大事な時間を充実して生きたい、という思いが強くなったのは確かだ。私くらいの年齢でエンディングノートを書く人などいないだろうと思っていたら、そうでもない。先日、50才になった女友達に会った。3年ぶりに会う彼女が10メートル先から微笑みながら歩いてくる姿は、とても美しくて、そこにだけスポットライトが当たっているような華やかさがあった。

彼女は元気と美貌が売りの事業を行っている会社を興して、今や弟子は100人を越えていると言う。「ねぇ、エンディングノートって知ってる?」と尋ねると「書いたわよ、今まで何度も書き直しているわ」と言う。「私の場合、いつ死ぬか分からないので会社を整理する段取りをしないといけないから、税理士さんと一緒に公正証書にしたわ。個人的なことも含めて、ね。」実は彼女は重篤な難病を持っている。大事に体を休めていれば長持ちするらしいが、それよりも人に揉まれて、体に無理があっても事業を続けていくことのほうが遙かに喜びだと言っていた。彼女曰く「言いたいことは我慢しなかったし、やりたいことをやってきたから、いつ死んだっていい」らしい。健康な会社員の夫や元気な子供が2人いるが、「家庭でまったり!」するのは嫌いで、思い描く事業を成功させること、外で人と接する仕事が大好きだから、明日死んでもいいから辞めないと言う。

つい最近似たような、あっぱれな話を聞いた。2ヶ月前のこと。60代半ばの女性事業主だ。「4年前にがんになり、いろんな治療を試みたが進行を止められない。最近、医師から1ヶ月ほど、と言われたが、体がさほど辛くないので実感がないのよ。ただ会社を引き継ぐ準備をしないといけないので、とても忙しい」と言うメールが来てから3週間で亡くなった。淡々とした落ち着きに、彼女はそんなに強い人だったのかと驚いた。後に残される者に対しての責任感もすごい。飛ぶ鳥跡を濁さず、だ。

この彼女や先の50才の友人にしても、たとえ会社の成り行きを放ったらかしにしたとしても、どうにかなるだろうし、いずれ収まるところに収まるとは思う。それは自分自身の問題なのだろう。自分の作り出したものを顧みて区切りをつける、気持ちの整理の一つと言えよう。それをすることで前を向いて、さらに現実を受け入れられる。

本人は意識していないだろうが、強さは美しいと思った。

冒頭の自分のエンディングノートに戻ると、全くひと文字も書けていない。悩むほどのことも無いのだが、私には彼女たちのような強さが無いのだろうか。どこか自分だけは、と言う思いがあって切迫感がないのだろうか。

射撃の弾を黙々と撃ちながら、60発が1ゲームではなく、実は、この1発が1ゲームなのだ。もっと言えば1発は一生の中で戻ってこない1発であり、どの1発とも違う、かけがえの無い瞬間だ。無為に過ごさないという意味を考える。

 

 

               

                                                             

“6月のおしゃべり’も更新しました。”

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