~ 前回のエッセイ ~


~幸せを生きる


  私がエアライフルを始めたのは2000年です。その前年にビームライフルの全国大会に出ました。

身障者ばかりの大会は、日本全国から大勢の選手が集まりました。バスをチャーターして大阪から、熊本からやってきたチーム。自分で運転してきた車いすユーザーあり、新幹線や飛行機でと、それぞれ遠くからその年の開催地、千葉の会場に集合しました。元気な身障者たち、特に大阪から西の人が多く、賑やかな関西弁が飛び交っていました。

その中に奈良からやってきた車いすの男性がいました。背筋がピンと伸びて機敏な車いすさばきは、爽やかな第一印象でした。とても人懐こい性格で、初対面ながら朗らかに話しかけてくれました。その後、彼とは大会で数度会いましたが、しばらくして彼は射撃を辞めてテニスや水泳、そしてアーチェリーと複数の種目をこなし、アクティブに動いていました。よく電話もかけてきてくれました。

「奈良に来ないの?テニスをしようよ」と電話口では、いつも彼の笑みが見えました。

その後、彼はアーチェリーで東京パラリンピックの代表選手に選ばれました。早々と代表選手になるということは強い選手という意味です。それは選ばれる仕組みを知ると分かります。種目により選ばれ方は少し違ってきますが、東京大会の4年前から世界中で、パラの出場権を得るための大会が始まります。年に2回か3回ほどで、大会の規模によって選ばれる人数は変わってきますが、上位数名が選ばれます。

ヨーロッパや中東や南米での大会は、行くこと自体も大変ですが、その時に体の一番良い状態、良いパフォーマンスができるように持っていくことは、特に身障者にとって、かなり神経を使います。誰でも出られるわけではありません。もちろん、基準点を越えていることは必須です。

始めの大会で上位の数人が選ばれます。そもそも上位になった選手というのは、次の大会でも、たいてい上位になるものです。そうするとすでに選ばれた人を除いて、それ以外から上位の選手が選ばれます。そうやって、4年間の内にどんどん代表選手が決まるというわけです。つまり、早々と選ばれた彼は世界でも強い選手というわけです。

この2年ほど電話がなかった。おそらく練習や合宿で忙しいのだろうと想像していました。

2月のある日、ネットのニュース速報で彼、仲善嗣選手が亡くなったことを知りました。

 昨年、東京パラリンピックが開催されていたら、おそらく出場していたことでしょう。そのことを「彼は無念だっただろう」と言う人もいます。そうなのでしょうか。

彼も出たかったからこそ得られた代表枠で、その勇姿を私は見たかったし、多くの人が彼の姿に励まされたことでしょう。でも彼は出る出ないを超越して、日々を充実して生きていたように思います。常に朗らかで、ゆったり話す口調は、電話の向こうに、いつも笑顔が見えていました。幸せを生きていた人で、関わる人に幸せを分け与えてくれました。

彼の奈良の関西弁を瞼に思い浮かべながら、いつか、どこかで会える日が有りますように、と。

安らかにお眠りください

 

 

 

 

 

 

 

▲ ページの上に戻る