~ 前回のエッセイ ~


「何が正しいかの常識は時代によって変わる」

~生き方すら翻弄さえれ障害者~

 


 

 私が受傷した35年前、脊髄の手術をするところは限られていた。そのため、専門でやっている病院に全国から患者が集まってきた。私もその一人だ。

そこには、沖縄や札幌、遠くからの人もいた。ちょうど夏だったので、プールの飛び込みで底に頭を打って頚髄損傷になった中学生が3人いた。他には、子供にバク転を見せようとして頭から落ちたお父さん、トランポリンの着地の失敗した人、時速10キロも出ていないバイクで転んで首を折った人やら多彩だ。元々アクティブだったという人が多かった。年齢も10代から各年代、万遍なくいたが、男性が8割というところ。仕事やスポーツの事故、交通事故にしても女性より男性の方が圧倒的に多い。病院にしては笑い声があって、賑やかさは異様だった。

気持ちの立ち直りの過程は、いろんな要素が介在する。その人の性格や家族の状況や理解度。事故でも自損か相手がいるのか、労災かそうでないのか。年齢、また宗教の有無もあるだろう。その時に関わった医療関係者からの影響もある。今ならネットからの情報で世界中に自分と似た境遇の人を見つけることもできるだろう。それが、まだ見えない自分の未来も想像できるかもしれない。ロールモデルはひとつの希望だ。

脊髄の同じ部位を損傷しても障害の出方は同じではない。私より2つ年上で、やはり交通事故の男性がいた。同じ部位を損傷し、障害レベルもそっくりだった。その人は津軽弁を話し、物静かでいつも穏やかな笑みをたたえていた。

よく並んで鉄アレイを上げていた。片手500グラムから始まった鉄アレイは10回連続を10セットできると徐々に重くしていく。彼と私は、順調にほぼ同じペースで進んでいった。片手15キロの頃には、もう無理だ、これでお終いかに思えたが、彼はなんと17キロに進んだ。追いつきたい一心で15キロを100回上げた。このころから夜中に腕の二頭筋と三角筋が切れるような感じがあった。あ、これで筋肉が大きくなるのだな、と痛みすら喜んでいた。あのころ、クールダウンなどなかった。

17キロに進んだ私が喘いでいると、なんと彼は20キロをあげているではないか・・・。

痛みは毎夜続いたが苦ではなかった。彼よりも、ずいぶん遅れながら私も片手20キロを上げてみた。連続10回は無理。しかし毎日、少しずつ10回連続に近づいていった。その頃、青森の彼は25キロを上げていた。同じ障害レベルでも筋肉量の多さでは、とても男性には叶わない。

リハビリ後、ジュースの自動販売機の前で飲みながら、彼のふるさとのこと、仕事中のけがであった話、独身であることなど、いろんな話を聞かせてくれた。数か月の後、リハビリ仲間の津軽人は、私より早くご両親と共に笑顔で地元へ戻っていった。私はさらに、1年近く入院していた。

彼の退院から半年後、まだ私が入院していた病院に彼が書類を取るためにやってきた。私は嬉しくて、外来の廊下にいる大勢の患者の間を目で縫うように、遠くから身を左右上下に動かしながら姿を探した。見つけた瞬間、絶句。たった半年で、ずいぶん姿が変わっていた。軽快さが消えていた。背中を丸めて、車いすを漕ぐのもしんどそう。顔が白くなって太っていた。私よりはるかに力持ちだったとは思えない漕ぎっぷり。

「具合でも悪いの?」と尋ねると「いや、用があって来たけど、どこも悪くない。」妙に歯切れが悪い。ねえ、今どうしているの?と尋ねる私に、「全くいい親を持ったもんだよ」と言う。「?何それ?」聞くと、家で車いすを取り上げられていると言う。月に1回地元の病院に行くときにだけ乗せてもらえるらしい。今日は久しぶりに車いすに乗ったので、貧血になるし漕ぐのがしんどい、とのこと。「え~。私たち重度だけれど、車だって運転できるのだから、車を買って、一人で出かけたら?」「ん~~~。」と、返事に窮していた。どうも、その願いは叶えられそうにない様子。

彼は労災なので、生活するには困らないはず。障害を隠したかったのだろうか、彼が?家族が?地域性もあるのかもしれない。家族や親戚の考えもあるのかもしれない。親に懐柔されたのか、本人が諦めたのかはわからない。世の中は今ほど、自立をすることに背中を押してくれるわけでもなかった。成人した男性なのだから、自分でなんとか状況を打開するべきだ、というのはよく知らない人が言う言葉。彼の言った、親に対しての言葉を聞いてわかるように彼自身も、これが正しいとは思っていなかったのだ、だとしても。

障害者にとって最初の障害は親だというように、こういうケースは聞くことがあった。あの頃より、今はずっと生きやすい世の中になっている。彼はそれを享受できているのだろうか。

 

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