12月のおしゃべり

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その2「主体は誰か!をよく考えて」~続編~


前回に引き続き、「主体は誰かをよく考えて」について、皆さまと一緒に考察しましょう。(前回の内容は、このページに下に載せております。参考まで。)

目の前にいる人への質問を、その本人ではなく隣りの人にする。また、質問してきた相手に回答するべきところを、その横の人に答える、という場面があります、という話しを前回しました。これだけ聞くと、「そんな失礼なことを私はしないわ」と、思うことでしょう。知らず知らずにしている私やあなたがいます。どんな場面でしているのか、具体的なエピソードを、前回に引き続き、ご紹介しましょう。

今月もおしゃべりの相手は、中野佐世子さんです。

 

教育ビデオをご紹介します。

~合理的配慮と職場のコミュニケーション~ 心のバリアフリーをめざして
(株)自己啓発協会 http://www.e-head.jp/
これは、「働く障害者に必要な配慮とは?職場でお互いがいい距離感でコミュニケーションを築くには?」を考えるきっかけになるような教材です。

私達は、悪意なく相手を傷つけていることがあります。重箱の隅をつつくかのように、小さなことを指摘して正そうなどと、正義を振りかざすつもりはありません。些末なことなどスルーしてもいいのです。ただ気づいた方がいい場面もあります。それは受ける側が、その心の芯部を深くえぐられるような思いをしている、しかし本人が指摘することは、まずないような時。同じ境遇になって、初めて「あの時の私の言動は」と気づくのかもしれませんが、そうならずとも、想像力を働かせればきっと分かると私は思います。

 

私は小学校入学時からクラスメートに知的障害の男の子と肢体不自由の女の子が居ました。ですから小さい時から「当事者に話し掛けるのが当たり前」と言う環境で育ちました。ある意味恵まれた環境と言えますね。今では聴覚障害の友人達をはじめ視覚障害や知的障害の友人がいますし、仕事柄、福祉教育の現場にいますので、あまり意識せずに当事者に接していると思います。しかし、親せきや友人に障害のある人が全く居ない場合、「自分とは違う世界で生きている人」のように感じてしまうかもしれませんね。偏見というよりも、想像すらしないという状態でしょうか。

 

 

確かに、それが思い当たる場面がありました。以前、ある講演の事前打ち合わせをしていた時のことでした。担当の方(男性)が「当日、おみやげを差し上げたいと思うのですが、障害者はどんなものが欲しいのですか」と尋ねてきました。ギョッとしましたが、にっこりと、「障害者だから、欲しいというものというより、女性だったら欲しいと思うものを考えたらどうでしょうか。」と答えました。それでもなお「いや、きっと障害者が欲しいものってあるでしょう?」と、納得せずに、さらに答えを求める。昨日までは女性だったが、怪我をして車いすに乗った今日からは女性よりも障害者が優先される、とでも思っているのだろうか、かなり悲しい気持ちになりました。幸い私の家族も友人も私を障害者である前に女性とみてくれているので、それ以上に自分の人格を傷つけることはありませんでしたが、家族がこのような考えであったなら、それを乗り越えるのは、結構ハードルが高いと思うわね。だって、障害者になって最初の「障害」が家族になるのですからね。

 

 

その人自身や大切な家族が同じ立場にならないと分からないのでしょうか?でも同じ立場になって初めて「あの時のことは」と、気づくのでは遅すぎますし、悲しすぎますね。だって人間には「想像力」と言うものがあるのですもの。これを常に働かせなくては、「共生」はいつまでたっても実現しません。

さて、前回は、障害の受容は自分の劣等感とも相関関係にある、という話しをしましたね。

 

 

人と比べないということが大事です。誰かより自分は劣っているとか、自分のほうが上等だとかと比べていると一喜一憂することになるので不安がつきまとう。自信を持つということは過剰でも不足でもなく、もっと確固たるものであるはず、本来は。その自信を身に付けたいし、大事にしたい。

話しが脱線しましたが、この回では、車いすの障害以外の障害者とコミニュケーションをする時に気を付けたいことの例をあげたいと思います。中野さんは手話通訳者でもあるので、聴覚障害者の人がそうでない人と会話をする際に気づくことはありますか。

 

 

はい、当事者であるはずの聴覚障害者に話しかけるべきところ、隣にいる手話通訳者に話し掛けてくる、という場面は多々ありますね。例えば、聴覚障害者に同行して病院などに行った時、医師が患者である聴覚障害者にではなく、手話通訳者に「いつから痛いの?」「どんなふうに痛いの?」と尋ねます。こうしたやりとりが続くと、患者(聴覚障害者)は不安であり不快な思いを抱きます。

「…どうして私の事なのに、手話通訳者に訊くのだろう…」と思うのは当然の事です。しかし、医師には一片の悪気もありません。直接話が出来ない(と思い込んでいる)ので、手話通訳者に話し掛けるわけです。ここでも「私が同じことをされたら…」と言う想像力が働いていないのです。

もちろん、そのままにしてはいません。患者(聴覚障害者)にその気持ちを手で語ってもらい、医師に伝えます。但し、医師との関係を悪くするような言い方はしません。聴覚障害者の居心地の悪さに気付いてもらえる様な言い回しで伝えます。あまりストレートな物言いをしないため、医師の変化をスグには引き出せない時もあり、同じやり取りを何度か繰り返すこともあります。悪気無くふるまっている人に対して、「自分の行為が相手を傷つけていること」に気付いてもらうためには時間と手間がかかります。しかし、これを性急に進めようとすると、相互の溝はさらに大きくなってしまうので、聴覚障害者と手話通訳者が丁寧に根気強く「教育」をしていくことになります。 (^_^;)チョット偉そうでしょうか?

でも、これは何も障害者に限った事ではありませんね。高齢者に対しても同じだと思います。健常者、若い人、忙しい人はつい、障害者や高齢者や病人にではなく、「より早く正しく理解するであろうと思い込んでいる相手」に対して話し掛けるものです。

これも自分自身が同じ立場に立った時分かるのでは遅すぎますね。自戒も含め「いま、私が話し掛けるべき相手は誰なのか」を常に意識していたいと思います。

 

 

悪意なく気づいていない人に、気づいてもらうことは難しい。時にはストレートに「私のことですから、私に話してください」などという事があります。その後、その人が「主体は誰か」を意識してくれるのかは疑問ですが、期待をします。佐世子さんのような通訳者の場合も、それとなく言ってみて分かりそうになかったら、ストレートに言ったらダメ?「当事者に向かって話して欲しいと言っていますよ」って。いけないかしら。私の例ですが、高齢で耳の遠い義母はトンチンカンなことも言うからなのか、私と誰かの三者で話しているときに、その誰かが私に向かって話しかけてくる。その人に私は「どうぞ、こちらに」と言葉と手で母に言うように指示することもありますよ。義母は何も言わないですが気づいていますから、ね。聴覚障害者の代わりに勝手に言っちゃいけないかしら?ね。

 また、視覚障害の方はどうでしょうか。私達は視覚障害の方はきっと、どちらを向いて話していても分からない、などと思ってしまいますが、これは大間違いです。声の発している人の向きは目の見える私達以上に敏感に感じ取っているのですよ。声の出ている方向はもちろん、空気の流れなど、とても鋭敏になるそうです。

以前、全盲の男性が車の助手席に乗られ、私が運転をしていました。道に迷い、日比谷あたりをぐるぐる回っていたら、さっき右折したところですね?などと言われ驚きました。失った部分を補うために、より発達する部位があるものだな、と思いました。

 

 

そうですか。素晴らしいですね。私は酷い方向音痴なので、視覚障害になったら大変なことになりそうです。話をそらしてしまいスミマセン。

 先ほどの「聴覚障害者の代わりに話す…」ということは基本的にしませんね。

手話通訳者はあくまでも「通訳」ですから、コミュニケーションを円滑にするための援助はしても、聴覚障害者が言っていないことを勝手に話すようなことはしませんよ。

ただひとみさんが言うように、伝え方や言い方はその時々、TPOによって変える必要はあると思います。もちろんそれも聴覚障害者と相談の上、決めていくことになりますが。

 

 

無視されたような態度をされることは障害の有無に関係なく不快です。例えば、駅で、あなたが駅員さんに何かを尋ねて、その答えを隣りの人に回答する。一度ならず、ずっとそうされていたら愉快ではないです。それと同じ。妻が誰かに声をかけて、その返事を横の夫にされる。高齢者の横の元気そうな人に返事をする。色んなケースがありますが、人を軽くみているような、というのは言い過ぎかしら。私も気を付けないと、と反省します。

私、自分が車いす生活になって如実に分かるのよ。元々身長が175センチと男性並みだったから、威圧感?があったのね、きっと。一番こういうことから遠い存在(怖くて無視しにくい存在)、つまり成人男性に近かったわけ。よく、障害を受け入れるのに女性より男性の方が難しいというけれど、こういう経験をあからさまに受けてショックが大きいからかも。女性は多かれ少なかれ、受けていると思うのよね。

 

 

そういえば、今はほぼ無いですが、バブルの頃は女性だからってタクシーの乗車拒否を受けることもあったわね。

女が強くなったと言われて久しいですが、女性は依然「弱者」ですから、様々な差別を受けながら育ってきています。そういう意味では想像力が働きやすいかもしれません。

 以前、女子学生が面白いことを話してくれました。

車の免許を取ったのでお父さんと一緒に車の販売店に行き、営業マンの話を聞いていた時。彼女が何を質問しても、その営業マンはお父さんに答えていたそうです。

お金を出すのがお父さんだから?男性同士だから? …その真意は不明ですが、彼女は「あんな失礼なことをされて、あの店では絶対買わない」と言っていました。これは当事者を意識し過ぎて見誤った失敗例ですね。

 

 

タクシーの女性乗車拒否はバブルというより、もっと以前からあったわ。女性は短距離しか乗らないだろうから避けて、もっとお金を落としてくれる男性に乗って欲しいという思いがあった。昔はタクシーに乗ることに贅沢感があったし、それほど乗らなかったわね。(古い!)今は気軽に乗るようになったので、女性だからってことは、ほぼ無いわよね。でも、車いすだからって避けられることは残念ながら、無くはないのよ。車いすプラス女性で、ダブルパンチ(ふる~)で泣いていたこともあったわ。

今でも「あ、嫌だな、避けたいな」と思う人はいるのでしょうが、ルールとして、それがしにくくなってきたということがあるわね。それでもいいと思うの。形(ルール)が中身(心の中身)を変えると思っています。話しは脱線しますが、ジャパンタクシーは、車いすで乗りにくくて、どうなっちゃうのかしら・・・。

上の佐世子さんのコメント、女子学生の車購入の場面です。これも女子というより、男子学生でも、同じ反応するかも。もしかしたら奥さんでも、そうかも。こういう短絡的な発想を持つ営業マンは仕事以外でもやっているよ。

出資者がその人にとっての主体なのね。車のことだから男同士の方がいいって?だとしても、運転する人が主体であるはずのところを間違っている。何につけても、その場面での主体は誰であるかを見失ってはいけない、本当に大事なことですね。

来年も引き続き、宜しくお願いします。

 

  ~~~~~~~~~~~~下は前回のおしゃべりです。上の分の前編です~~~~~~~~~~~

 

ひとみさんの本の中に有りました。講演先の人と伸行さん(ひとみさんのご主人ね。)と3人で喫茶店に入っていたときに、「ひとみさんはお砂糖を使いますか?」と、目の前にいる、ひとみさんに聞くのではなく伸行さんに尋ねた、というくだり。これは印象深く私の中に残っています。

最近は、そのような体験はありますか。

 

はい、先日、女友達と横浜に行きました。ホテルの喫茶室に入る数段にスロープを出してもらう場面で受けた時のことです。スロープを出してもらい、下りるまでに後ろ向きのほうがいいのか等のモロモロのやり取りをしていました。私が質問し、ホテルの方(女性)が私の友人に答える。またホテルの方が私のことを友人に尋ねる。友人が分からないので、私の顔を見るので、私が答える。トライアングル状態。数度繰り返していましたが、この状態がずっと続くので、「私に聞いてください」と言う言葉が、とうとう口をついて出てしまいました。実は私はこう見えて?相手に指摘することはめったに有りません。指摘するほうもエネルギーが要るので、我慢すれば過ぎることだと、つい思ってしまいます。こういう積み重ねが実はストレスになりますね。

そう言いながら、自分が受けることには敏感でも、人の痛みに気づいていないことがあります。自分を顧みても、聴覚障害者の横にいる通訳者に向かって話している自分が確かにいました。だからこそ指摘されなきゃいけない、ということになるのかもしれませんが。

 

そうですね。いろんな場面で、それは見受けられますね。私達は意識しないと、つい高齢の方の横にいる元気そうな若い方に、声をかけてしまう、隣の高齢の方の話題でありながら。その方は何もおっしゃらなくとも、感じとっていらしているかもしれないわね。知らずに失礼なことをしていることや、また寂しい思いをさせているのかもしれません。

 

高齢者や障害者がいて、その横に介助らしき人がいるときです。私がその高齢者(障害者)に話しかけているのに、介助の人が全部、言葉を取っちゃうことがあります。これは良くないですね。だからと言ってなかなか注意できるものでも無い。もう保護者になっているのでしょう、子ども扱いですね。その人の自立心を削いじゃいますよ。

 

主導権がどちらに有るのかが一目瞭然ね。男性で奥様の発言をとっちゃうのも、この例と一緒かもしれないわね。話しを戻しましょう。あなたへの質問を横にいる誰かに尋ねるということでは、他にありますか?

 

はい、この夏にありました。ヨーロッパに行く飛行機の中です。長時間になるので、数度トイレを使います。飛行機にはアイルチェアと言って、狭い車いすの用意があります。使う際にそれを出してもらいます。着陸3時間前になって、乗務員が気を利かせて私のトイレを心配してくださった。これは有難いことですが、私に聞くのではなく、通路を隔てて斜め前にいる夫に私のトイレのことを尋ねているのです。私は斜め後ろに居たので、様子が、すべて分かりました。その時、夫は寝ていて、その夫を起こして尋ねているのです。

起きて本を読んでいる私に尋ねれば簡単なのに・・・。

「夫に聞いても私の膀胱は彼には有りませんよ」と皮肉な気持ちになりました。実は去年も全く同じ経験をしました。こういうことが続くと、障害者への認識は低く、まだまだ私は半人前ということなのかしら、と自分の存在までが小さく思えてくるわ。

 

強そう!に見えるあなたですら自分の存在価値にまで及ぶのだから、怪我や病気で障害を持ち、これからリハビリという人や、加齢で体の自由が利かなくなってきた高齢者にとっては、奮起する気持ちや、自信を取り戻す過程で阻害要因になりますね。別の意味での障害ね。

わたしが講師を務めている大学にも車いすの学生がたくさん居ます。昨年の講義では、20歳の女子学生がこんな話をしてくれました。

羽田空港の保安検査場でのこと。車いすは金属製なので、どうしてもゲートで反応してしまい、ボディチェックを受けることになります。そのとき検査官が彼女にではなく、お母さんに向かって「体を触っても良いですか?」と、訊いたのだそうです。「先生、私の身体なのにね。」と、彼女は悲しそうに報告してくれました。もちろん相手に悪気が無いのは分かっていますが、それでも聞いているだけで怒りを覚えてしましました。

20歳の女子学生ではない、今のひとみさんはどのように受け受け止めていますか?

 

今だと不愉快だな。失礼だなと思うことはあっても、自分の人格や価値にまで及びません。それが正常な反応なのでしょう。まだ、十分に自分の障害を受け入れられずに葛藤している途上だった時は、このような出来事があると、世間から価値が無い存在なのだとダメ押しされているようで、苦しいですね・・・。がんばる気持ちを後退させるようで。これは障害者、高齢者に限ったことではなく、コンプレックスや劣等感のある人にも有るかもしれません。深層心理に有るものが反応として表れる。自分の価値に自信をもっている人なら無視できる強さがあるのでしょうね。

 

打たれ強い人とそうで無い人の違いは、自分に対する自信とも関係しているのね。何を言われても柳に風と受け流すくらい強い人は少ないわよ。だからこそ私たちは、言ってはいけないこと、してはいけない態度には敏感になり、「今、私が話し掛けるべき相手は誰か?」「主体は誰にあるのか?」を強く意識すべきですね。

それがすなわち、相手を認めることにもなるわけですから。

 

さよこさんは他の障害の方の例も多くご存じかとおもいます。どんなことがよくありがちで、私達は何に気づけば良いのでしょうか?

この続きは、来月におしゃべりします。

寒さに向かい、皆さまお体に気を付けてください。風邪を召しませんように。

 

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